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音の記憶

風が、木の葉をふるわせる音は?

鳥が、高い声でさえずる音は?

嵐の海の、荒れた波の音は?


園子先生は、今まで私が聴いたことのある音を、記憶のなかから拾いあげてピアノで表せ、と言った。私が躊躇すると、厳しく罰したが、恐れを飛び越え、震える指で旋律を奏でると、そう、そうよ、とうなづくようにつぶやいた。

先生はフォーレやラフマニノフ、リストやショパンの作った音楽に、あなたの物語をつけなさい、と言った。


旋律を頼りに、脳裏に広がっていく景色。

あたたかい赤、つめたい青、まぶしい黄色、おだやかな緑。

色を知らない私は、ふれたものから想像の翼をひろげ、音楽のなかで自由にはばたいた。

音階が編み出す、植物や動物や、さまざまな人間が交錯する物語。


その当時、私は映画というものの存在を知らなかったが、脳裏に広がる世界はまるで映画のようだった。
園子先生のピアノから流れてくるさまざまな音楽は、私の内にある世界を豊かにした。ピアノの蓋に何度指を挟まれても、私は翌日のレッスンを休むことはしなかった。

新しい世界が耳から注ぎ込み、その奔流から新しい物語が生まれる。 
私は自分の指と耳を頼りに、物語を模索しつづけた。
 
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inthemiddle * 遠い浜辺 * 13:56 * comments(0) * -

春風

昼間桃香が干してくれた新しいシーツに鼻を埋め、布に残った陽の匂いをかぐ。夕方近くなっても窓の外はほの明るく、春の気配がほんのりと感じられるようになった。

頬に陽の熱を感じながら眼を閉じ、窓辺のソファに寝転ぶと、胸に満ちてくるなんとも言えない幸福感に口元がゆるむ。洗濯物を取り込んでいた桃香は私の姿を目ざとく見つけ、またそんな自堕落な格好をして、と笑った。

軽く彼女の足で背中を蹴られ、痛くもないのに痛いと言って、桃香が眉を寄せるのを面白がる。

ささやかではあるけれど、こんな生活を一瞬でも思い描いたことはあっただろうか。

小さかった私はその日その日をやり過ごすことで精一杯だった。
理不尽な世界を憎み、世界の過半数は敵だと大げさではなく信じていたあの頃。

いつしか、世界を覆っていた暗闇に、針穴ほどの光が射し、その光は少しずつ大きくなった。
今私は、その光を手にしているように思う。

春の気配の中で、ゆっくりと息をし、また次の旋律を考えよう。

軽やかな風は樹々を揺らし、梢では小鳥のさえずりが聴こえ、暖かな陽がこぼれる。





inthemiddle * - * 01:15 * comments(0) * -

光の輪

 堅苦しい挨拶も抜きでテーブルにつき、自然に和馬の隣に腰掛けた蘇芳は、トレンチコートのポケットから皺のついたハガキを取りだした。

「これ、来月の展示。良かったら二人で来てよ」

早口に言うのは照れ隠しか、私と視線も合わせようとしない。
和馬は小さく、僕は見えないんだけれど、と苦笑した。
「いや、それはオレが説明するから。一枚一枚、どんな風に描いてあるか、話すよ」
和馬の方に体を向け、わたしには必死に見える表情で蘇芳は言う。

「…あと、会わせたいやつがいてさ」
聞こえるか聞こえないか、虫の鳴くような声でつぶやく。
「え? 聞こえない。なんて?」
和馬はおそらく蘇芳がなにを言おうとしているのか知っていて、蘇芳をひやかそうとしている。
「もう一回言って、蘇芳」
「だから…! 合わせたい人がいるんだよ」
わたしは、唐突にはじまった兄弟の掛け合いに笑いをこらえるのが辛くなってきている。
口元に笑みを浮かべながら、和馬はふうん、それは楽しみだなあ、と役者のような声を作って蘇芳をひやかす。
蘇芳は耳たぶまで赤くしてうつむき、テーブルの端を強く握っている。
そんな彼らを見ながら、二人の間に長い間横たわっていた過去がゆっくりと氷解していくように思えた。



inthemiddle * - * 23:09 * comments(0) * -

一縷の糸を掬う手と

あなたの艶やかな黒髪と、あなたの濃くまばゆい眼と、その赤い唇とがいつのまにか私の胸に息づいていた。

あなたの思いはもの言わずとも、私の胸に届いたけれど、すぐに受けとめることはできなかった。あなたがまだ若すぎたことや、私に鞠子という婚約者がいたことが、あなたへの私の思いをせき止めていた。

鞠子とあなたは、まるで違う人種のように思えた。
鞠子はいつも自分の意見をしっかりともち、私に臆せず、自分の道を自分で切り拓いていくことが滞りなくできる女性だった。わたしは彼女の快活さと潔癖さに魅かれたのだった。また、遠く北海道で出会ったことが、私たちを強い運命の絆で結んでいると信じて疑わなかった。
あなたはいつもためらいがちで、自分の心を私に吐露することに負担を感じていた。おそらく鞠子の存在を知ってからは、その胸を終始痛めていたに違いない。傷つきやすい自分を知っていて、わざと気丈にふるまい、私を心配させまいとしていた。

鞠子との縁談を断り、あなたに思いを告げたときからあなたの苦悩は二重になってしまったのだった。
私の人生に瑕をつけたと思い、鞠子の人生をも奪ってしまったと感じたあなたは、深い迷路に入り込んでしまった。
私が、まだ前途有望なあなたの道を無理やり曲げてしまったのだった。けれど、そう気づいたときにはもう、私自身も入り組んだ迷路に迷い込んでしまっていた。

ほら、深境湖の水面が今日も揺れている。
お釈迦様の滑らかな手から垂らされたひとすじの糸は、私たちには細すぎた。
隣にいる伊織の顔は、上気したように火照っているが、その手は氷のように冷たい。
私たちはほんとうに、なにもかもから見放されてしまったのだろうか?


inthemiddle * 藍の方舟 * 23:36 * comments(0) * -

小さな星になりたい

僕は、あなたに憧れている。でも、そんなこと言ったって、どうにもならないことくらい分かってる。そう、冬司兄ちゃんにはかなわないって、僕なんか、あなたにはほんの子どもにしか見えないって知っている。

あなたの声や、そのきれいな髪や、僕にかけてくれたやさしい言葉なんかを夜眠るまえに、ぐるぐると思い出す。
そして、僕がもう少し大人だったら、あなたを泣かせることなんて絶対にしないのにと悔しくて歯ぎしりしたくなる。

秋の匂いが鼻をかすめ、暗くなっていく空を背中に感じながら、深境湖の遊歩道を走った。
なぜ、なぜ、どうしてなんだ?
冬司兄ちゃんは僕の自慢の兄だ、でも兄ちゃんがあなたといるところを見ると、悲しくなる。
とても。
そして、一秒でも早く大人になりたいと願うんだ。
世の中には、誰かに大声で問いかけたくなることがたくさんある。
なぜ僕はこんなにたよりなく、誰の力にもなれず、息を切らしてひとり、走っているのだろう。
本当はこんな気持ち、誰かに吐き出したいのだけれど、まわりの友だちに相談するなんてはことできない。

そんな、夢みたいなこと言ってないで現実みろよ、なんて言われて笑われて終わるに決まってる。だから、この気持ちは誰も知らない。僕だけが知っている、僕だけの秘密。




inthemiddle * 藍の方舟 * 23:35 * comments(0) * -

白い箱の中の奔流

あなたの心は、動かすことができないほどの錘を抱えたまま成長した。
その重みに耐えきれる寸前のところで息をし、かすかな呼吸で命をつないだ。
やがて錘とともに生きる決意をし、錘と一体になったあなたは生きるすべを見いだした。

秘密、は誰の胸の中にも存在する。
言えない秘密、言いたい秘密。
重い秘密、汚れた秘密、残酷な秘密。

あなたの心はそのまま、パンドラの箱だった。
けれど、箱はときどきかたかたと鳴る。
あふれだしそうな奔流を抱えた過去は容赦なく、あなたを浸食する。
どんなにきつく蓋を閉め、何重にも針金を巻いても。

けれど、あなたは優しかった。
すべてを慈しむような指で、小さな宇宙を作った。
わたしは、宇宙を作ったあなたを知りたいと欲した。
あなたは困惑し、夜毎パンドラの箱は鳴る。
すぐそばにある現実も、夜の闇の無限には勝てるはずもなくうなだれる。

周到に隠したはずの指が、それはそれは美しいあの指が、箱の中から誘惑する。
おまえは、こちら側の人間なのだよ、と。
あの甘やかな声で、漁師を幻惑するセイレーンのように。

inthemiddle * 藍の方舟 * 00:33 * comments(0) * -

青の伝言

わたしたちが記憶をたどってたどりついた町には、小さな不動産屋が3軒あり、ひとつは看板はでているものの、シャッターを閉じた形だけのもの、ひとつは主が入院中で営業停止となっているもの、最後の一軒が80代の男性が経営する店だった。

店の玄関扉には、気泡の混じった年代物のガラスが嵌められており、室内からは、長方形に切り取られた海が見える。

店主は、最近は週に2回ほどしか店を開けないので、あんた達は運がいいねえと笑った。わたしたちのことを、新婚で新居を探しにきた夫婦と思っているようだった。

店主がファイルをめくり、夫婦向けの物件を探し始めたのを見て、和馬が言いにくそうにこの付近に昔、子どもを預かる施設があったようなのですが、とたずねた。

店主はファイルから顔をあげ、わたしと和馬の顔をまじまじとながめた。

「そりゃ、青木さんのことかい?」
「青木さん…?」

私と和馬は店主の言葉をそっくりそのまま反復したが、その名前に記憶はなかった。

「ここからしばらく行った山の上に私設の孤児院があったんだけどね、そうだねえ、15年くらい前に廃業になっちまったんだよ。詳しいことはわかんねえが、たしかそこの理事長さんの名前が青木さんっつう名前でねえ…」

わたしたちは店主に詳しい場所をたずね、今はもう荒れ放題になっているという孤児院に行くことにした。

店主は鉛筆でメモ用紙に地図を描き、物好きもいるもんだねえとなかばあきれた顔で私たちを見た。

和馬もわたしも、孤児院にいたのだとは告げず、古い建築に興味があるのだとうそぶいた。




inthemiddle * 遠い浜辺 * 23:59 * comments(0) * -

眠りの宮

「眠りの宮」と名付けられたその小さな立方体は、私の手のひらの上にのせるとひんやりと冷たく、繊細にきらめいた。
わずか一センチ四方の四角のなかに広がる、銀河のような無限の世界にわたしはしばし漂った。
この彫刻を眠るまえにながめることは、いつしか一日の疲労から解き放たれるための儀式のようになっていた。

作者は、どんな思いでこの作品を作ったのだろう。「眠りの宮」をながめるたびにその問いはくり返され、作者自身にも興味がわいた。

「眠りの宮」を購入してから3ヶ月ほどたったころ、加賀朔春の新作が数点入荷された、という報せが白沖堂から届いた。
 丁寧な文字で、月末に東京に作家さんが来られる予定なので、ぜひお話をする場をもうけたいと添えられていた。

 わたしのなかで淡く翳のかかっていた作家像が、急速に現実味を帯びてきた。「眠りの宮」を作った本人に会えるのだ。ハガキを読んですぐに喜々として電話を取り、スケジュールを会わせ、白沖堂に行く約束をした。

 受話器を置いたあと、ふだんはこんなに行動的ではないのに、と自分の変貌ぶりに苦笑しつつ、ベッドサイドに置いた「眠りの宮」を見た。「眠りの宮」は、湖の湖面のように穏やかな光をたたえていた。
inthemiddle * 藍の方舟 * 00:12 * comments(0) * -

野道をあるけば

あの人の声は、暴力的にわたしを引き摺り寄せた。歌声は無数の時間を巻き戻し、非力なわたしをねじ伏せるように、急速なスピードで過去を取り戻していく。

年月が過ぎてしまったことを忘れさせるほどに、あの日の空、雲のかたち、風の音、草の匂いまでが鮮明に脳裏によみがえる。ふれられるぐらいにくっきりとした輪郭をもって。
気がつくと、わたしは8歳の少女だった。

高知の空。はるか彼方まで見渡せる360度の視界。私の眼の前には3輪車に乗った祖母のまだ肉づきの良い背中がある。後ろのカゴでは、めいっぱいにふくらんだビニール袋がゆらゆらと風にそよいでいる。その中には今夜の夕飯の材料が入っているはずだ。
右手には田圃が広がり、風化しかけた防空壕がのぞいている。小さなわたしには空の威力は凄まじく、背後から迫ってくる夕暮れの気配に圧倒されるように無心に自転車を漕いでいる。

今ではもう、潰されてしまった家に帰ろうとしているわたしたち。

あの頃は、すべてのことが永遠に続くと疑わなかった。あなたと離れることを。この地を離れることを知る由もなかった。
飛行機の小窓から小さくなっていく見慣れた景色をしがみつくようにして見つめつづけた。しだいに玩具のようになっていくすべて。

行かないで。わたしを連れて行かないで。大声で叫ぶわたし。その声は今のわたしのものだった。叫び続けても、小さな空港の屋上にたたずむうなだれた祖母に声は届かない。

潮が引くように、場面が薄れていく。ああ、やめて、わたしはまだここにいたい、まだ、ここにいたいの。

歌が終わり、彼が穏やかな表情でわたしを見ていた。わたしは濡れた頬を強引にこすり、立ちあがる。

何があろうと、どんな酷いことが起ころうとも、わたしたちは生きて行かねばならない。

刻みつけられた幸福の意味を知るために、そのことをこれから出会う誰かにしっかりと手渡していくために。

あの人と歩いた道を、今、あなたとこうして歩ける幸福をかみしめながら生きていく。


inthemiddle * 藍の方舟 * 00:56 * comments(0) * -

あわい光のきざし

何を思い、何を見つめ、どうやって船を漕いでいくか。
荒波も、凪いだ海も、そのままずっと同じかたちではいられない。
絶えず変化し続けている。

荒れ放題にのびた野草の葉が、小さくささやくように頬にふれる。雲間からは、薄日が射し、やわらかく波間にこぼれおちていく。

桃香には散歩に出かけると言って家を出てきたが、私は彼女にふいに見えるようになった世界に圧倒されて、押し潰されそうになった自分の混乱を悟られたくなかった。
勘のいい彼女はもしかしたら気づいていて、何も言わないのかもしれない。そういう桃香の優しさも今は混乱を強めるだけだった。

ぼんやりと砂浜をのぞむ岩に腰かけ、岩を囲むように群生する背の高い野草とともに海を眺める。曇り空のために、海面も薄い灰色をしている。

蘇芳の眼で見る世界は、色にあふれ、光に満ちている。その光は常に揺れ動き、絶え間なく皆を包むかのように降り注いでいる。ピアノの高音を一本の指でささやかに鳴らすような、優しさに満ちた音楽が聴こえてくるような気がした。

わたしの視界にいちどきに流れ込んできたのは、見えるものだけでなく、見えることから生じた恐れだったのかもしれない。見える、ということはすべてを受け容れるということなのだろうか。まだ、心のなかでさまざまなことが消化できないでいる。

けれど、放心して景色をながめていると、まだすべてを決めなくてもよいのだ、と誰かがささやいてくれているような安堵に包まれた。
わたしの額にも、桃香の頬にも、この穏やかな光はやわらかく、たよりなくあたり、このままゆるやかに日々は流れていくだろう。

蘇芳が与えてくれたもうひとつの世界を、わたしが慈しむことができたなら、彼もわたしとともに歩く世界を愛してくれるだろうか。
inthemiddle * 遠い浜辺 * 21:11 * comments(0) * -
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